深夜3時の病院の廊下を、ミツルは走っていた。坂下教授の携帯電話から、悠の泣き声を聞いたからだった。彼女の姿を見つけると、駆け寄る。
「教授は?」
「……」
 無言で上を見上げる。ネームプレートがそれを示しており、ドアを開けると眠っている教授が見えた。
 音を立てないようにそっと閉めると、彼女の前に立った。
「何があったの?」
「……」
 無言で首を振る。
「わからない…。私、わからない!」
 興奮状態のようだ。
「私、先生を助けたかった。なのに、なんで、こんな…!」
 夜中の廊下に響き渡る。続いて、彼女のすすり泣きが聞こえた。顔を押さえ、髪をかき乱している。これでは何も聞けないだろう。
 ゆっくりと、隣に座る。そして、落ち着いた声で言った。
「教授が倒れたのは、今に始まったことじゃない。前にもあった。」
 彼女をなぐさめる意味もあった。
「いつも、俺に心配かけさせる。人の気も知らないで…。」
 思わず怒りがこもる。
「違うの!」
 悠の声が響く。
「先生、普通じゃなかった!」
 ミツルの目から見ても、悠も尋常じゃない。
「君も、寝た方がいいよ。教授は俺が見てる。」
「いや…」
 彼女は、明らかに昼間見た彼女と違っていた。何かに怯え、何かを恐れている。一体、この二人に何があったのだろうか?
 悠は、教授の恋人ではない。だが、こんな夜中に二人で会っていた。彼女が坂下教授の携帯電話を使っていたことから、それがわかる。
 ミツルには、二人がどういう関係かすら、わかっていなかった。それを問い質すには、時間が必要だ。
 結局、朝を待つしかなさそうだった。


――先生、目を覚まして。お願い…
 教授の手を握り締めながら、悠はそう祈っていた。祈りながら、眠っていた。朝、目覚めた俺が見たのは、そんな光景だった。
「ん…」
 うめき声を上げて、教授が目覚める。起き上がると、悠を見つけた。
「きょう…」
 声を上げると彼は口に人差し指を当て、彼女を見た。まだ眠っていた。ほっとため息をつく。その優しい眼差しは、俺が今まで見る限り、どの女性にも向けられたことのなかったものだった。
「心配、かけたようだね。」
 穏やかに、言った。首を振る。
「彼女ほどじゃ、ありませんよ。」
 悠を見る。
「俺には、いつものことですから。」
 そうか、と笑い、ため息を一つつく。
「でも、彼女は言った。『普通じゃなかった』と。一体、どういう意味です?」
 教授は何かを言いかけたが、首を振った。
「いいんだ。僕は、平気だから。」
「彼女、自分を責めてましたよ。」
 一つ、賭けをしてみた。教授は、どんな反応をするのだろうか。
「そうか…。」
 淋しく笑っただけだった。忘れていた、教授は鈍感だった。
「聞いてもいいですか。」
「何を?」
「……教授と彼女、どういう関係なんです?」
 恋人同士ではない。なら、何なんだ。
「うーん…難しい。」
 答えられない?教授が?
「家族…、兄妹…、親友…、戦友…。」
 その答えって何だ?
「まあ、そんなところだ。」
 微笑まれても、わからない。なら、聞いてみるまでだ。
「恋人じゃ、ないんですね。」
「恋人では、ない。」
「じゃ、俺が彼女を好きになったら、どうしますか?」
 どう答えるのか。慌てるのか?
「それは、悠が決めることだ。」
 あっさり、言われた。さっぱり、意味がわからなかった。
「まあ、理屈でおさまり切れないことが、この世の中にはたくさんあるってことだよ。」
 そんな俺の心を見透かすように、教授は言った。時々この人は、本当に鈍感なんだろうか、と思う。
「でも、僕にとって、大切な人であることには変わりはない。悠を傷つけたら、いくら君だって許さないかもな。」
 冗談っぽく言ってはいるが、その目つきは鋭かった。教授が、そんな表情をするなんて。ますます、訳がわからなかった。
 教授と悠を見た。ここに俺はいるべき人じゃないかもしれない。
「俺、とりあえず大学に戻ります。今日の講義は中止にしてもらいます。それでいいですか?」
 すると、教授は本来の顔に戻った。
「ああ、すまない…。心配かけて、すまなかったね。」
 その顔は、俺が知ってる教授だった。安心した。
「体、大事にして下さい。」
 それだけを言うと、その場を去った。


 ミツルが去り、悠がぼんやり目覚めた頃、一人の医者が入って来た。
「心因性ストレス症候群。信之にしては、珍しいな。そんなに繊細だったか?」
 カルテから目を離し、笑いながら見た時、その表情は硬直した。
「す、すまん、一人だと思った。」
「構わないよ。続けてくれ。」
 信之と同年代らしいその医者は、悠とは反対側のベッドに腰掛ける。不思議そうな顔をしている彼女に、どう答えたものか、笑みをかけた。
 それに気付いた信之は、彼を紹介する。
「ここの医師の、衛藤(えとう)だ。僕とは友達…いや、悪友かな。」
 笑いながら、視線を送る。
「彼女は、悠だ。それ以外、何者でもない。」
 その一言で、衛藤はわかったようだ。詳細を聞こうとはせず、再びカルテに目を落とす。
「以前からのトラウマから逃げ出せていないようだな。脳波に多少の異常が起きている。ま、心配するほどのことじゃないけどな。」
 数枚の紙をめくっていたが、安心するようにため息をついた。
「脳を扱ってる奴が、自分の脳をおかしくしてどうする?少しは周りも考えろよ。」
「それはミツルにも言われた。」
 真剣な衛藤の表情に、信之は笑みで返す。
「これでもオレは、心配して言ってるんだ。…やっぱり、あのことが原因か?」
 視線を落とす。ふと悠に気付き、言った。
「彼女は知ってるのか?」
「言おうとしたら、このあり様だ。…もう、5年前のことなのにな。」
 衛藤は口をつぐんだ。
「そうか、わかった。」
 立ち上がる。
「ここは、病院だ。倒れるならいつでも倒れろ。オレがいるからな。」
 力強い視線を信之へ送り、悠を優しく見た。
「信之を、任せた。」
 訳がわからないまま、衛藤は去ってしまった。


「悠、心配かけたな。」
「……」
 信之の優しい笑顔に、首を振る。心が、切なくなった。目に涙が溜まってくる。そんな彼女の髪を、かきあげてやる。
「僕なら、心配ない。」
「でも先生…」
「心配ないから。」
 力強く言われ、口をつぐんでしまった。頬に手を当てる。信之の温もりが、直接悠に触れる。その温かさが、悠の心を少し軽くさせた。
 彼女が落ち着くのを待ち、彼は口を開いた。
「僕は、隠していた訳じゃないんだ。そのことを話そうとすれば、辛くなる。相手も、辛くなる。なら、話さなくてもいいものだと思っていたんだ。」
 表情は、真剣だった。
「…でも、話さなきゃ、ならなかったんだな。」
 そう言うと、目を閉じた。頬から手が落ちる。一息、深呼吸をした。


 信之の話は、過酷だった。
 幼い頃の信之には、訳がわからなかった。記憶にあるのは、周囲が血の海と化した両親と姉の死体だった。
 成長した彼が理解したのは、7歳年上の姉の婚約者が逆恨みをし、一家を虐殺しようと考えたらしいと言うことだった。
 当時一面トップを飾ったその記事は、マスコミの餌食となる。
 また、裕福だった信之の遺産を我が物にせんと、親類の醜い争いが何年も絶えなかった。
 そこである時彼は、その遺産を使って、単身アメリカへ渡ることを決意したのだった。

 その頃の信之は、誰も信じられなかった。
 アメリカンスクールの生徒達も、彼を同級とは思わず、イエローモンキー(人種差別)としてしか扱わなかった。
 そうして2年が経った頃、同じスクール内に一人の日本人留学生がやって来た。
 名前を、紗夜(さや)と言った。
 全く英語が話せない彼女は、同じ日本人である信之を頼った。人と関わることを避けたかった彼は、ひたすら無視した。
 だが、彼女は諦めなかった。どこへ行くにも、後をついて来た。
 何故自分を頼りにするのか、わからなかった。スクールでも紗夜は人気があったし、白人でも本気で惚れている奴がいたくらいだ。
「何でついてくんだよ。」
 信之は、とうとう紗夜と向き合うことにした。
「だって坂下君、淋しそうだから。」
 何の躊躇もなく、言われた。
「せっかく生きてるのに、人生無駄にしたら、つまんないじゃない。」
 そう言って、微笑んだ。信之は、戸惑いを隠せなかった。今までは、自分を利用しようとする人間しか周りにいなかった。
「そんなの…知らねぇよ!」
 その場を逃げ出すしかなかった。

 それから、信之は紗夜を意識するようになった。
 彼女は相変わらず人気があるが、自分について来る。一言二言、会話を交わすようになった。
「何で、ついて来る?」
「坂下君が、私を向いてくれるまで。」
「…答えになってねーよ。」
「そうかもね。」
 そう言い、笑う。それでも彼女はついて来た。

 スクールを卒業し、大学に入る頃には付き合うようになっていた。
 彼女の前では、素直になれた。自分の想いを、伝えられるようになった。
「紗夜、こんな僕の、どこがいい?」
「どこって…。坂下君は、本当は優しいんだよ。」
 そんな会話が出来るくらい、幸福な日々だった。

 ある夜、信之は紗夜の待つ家に帰った。
 ドアを開けて、不審に思った。二重ドアに、鍵がかかっていなかった。
 嫌な予感が、した。
 部屋の電気をつける。
 そこには…血まみれの彼女が、倒れていた。


「…だが、彼女は死んでいなかったんだ。」
 信之は淡々と、語っていた。
「体は生きていたが、脳は死んでいた。つまり、植物人間状態だったんだ。」
 何となく、悠にはわかった。
「どの病院でも、治らなかった。生きているのが奇跡だと言われたくらいだ。僕は、何も出来ない医者を呪った。貶した。でも、どうにもならなかった。」
 表情が苦痛に変わる。
「なら、自分で何とかすると思った。何があっても、紗夜を助けたいと思った。死に物狂いで研究したんだ。」
 信之の専攻は、脳におけるものだった。
「大学で、博士号を3つ取得、でもそれがなんだ!」
 言葉が荒げる。
「若干20歳で博士、教授、それがなんだ!」
 信之の目から、涙が落ちる。
「僕は結局、紗夜を助けられなかった…。」
 目を閉じ、悠の手を離した。祈るように、手を組む。
「10年も苦しませた挙句、彼女は死んでしまった…。」
 耐えられなくなり、うつむく。大粒の涙が、いくつも落ちた。
 悠は、すべてを理解した。信之が、心を開けなかったこと。鈍感。女性に興味がないこと。…自分を抱こうとしなかったこと。
 信之はまだ、紗夜を愛していたのだ。それだけに、他の女性は目に入らなかったのだ。
「もう、5年も、経つのにな…。」
 涙目のまま、悠を見た。諦めのような、絶望した笑みがそこにあった。更に涙があふれ、落ちる。悠には、何も出来なかった。


 一人にしてくれないか、と言う信之の言葉に、悠はその通りにした。病室を出る。するとそこには、衛藤が立っていた。
「話を、聞いた?」
 悠はうなづく。衛藤もまた、辛い表情をしていた。
「オレは、当時のスタッフの一人だった。」
 懐からタバコを取り出し、火を点ける。
「あれほど、自分の無力さを感じたことは、なかったな。」
「私…」
 悠もまた、自分を見失っていた。
「先生を、助けるって言って、何も出来ない。辛い想いまでさせてこんな告白までさせて、結局何も出来ない。」
 泣き出してしまいそうだった。衛藤は、静かに煙を吐いた。
「信之は、そこまで望んでない。」
「え…」
 驚いたように彼を見る。あくまでも、冷静だった。
「アイツは、そんなに甘いヤツじゃない。言葉で責任を押し付けるほど、簡単なヤツじゃない。」
 すぐには、理解出来なかった。タバコの匂いが、悠の脳を刺激する。
「君に、何かをして欲しいから告白した訳じゃない。君に、知ってて欲しかっただけだ。」
「……」
「それを、理解して欲しい。信之ってヤツは、そういうヤツだ。」
「…でも…」
「それでも自分に責任を感じるようなら、構わないさ。だが、表に出さないで欲しい。」
 衛藤の言っている意味が、わからなかった。
「君に、何かを背負わせるようなことは、望んでないってことだ。」
 衛藤を見つめる。
「先生は、私に、何を望んでるの?」
「そんなことは、わからない。」
 あっさり、言われた。
「でも、自分のことを負担に感じさせないやり方をしているはずだよ。アイツはいつだって…」
 ゆっくり煙を吸い、吐く。
「相手の幸せを、願っているからな。」


 先生は、私に何かを望んでいる訳じゃない。
 始めから、私を守るつもりでいた。
 何も聞かなかったのは、興味がなかった訳じゃない。
 私と先生の間、何かの関係になることが怖かったからだ。
 …私が先生を好きになっても、先生はそれに答えられない…と言うことだろうか。
 先生は、私に、自由でいて欲しいと言った。
 何をしても良い、と言った。
 …つまり、それは、恋愛以外で。
 私に何かをすることに協力する、と言うことだろうか。
 自分が、後ろ盾になって。
 先生は、私に、羽ばたいて欲しいと言った。
 自分に自信を持てる人生を送れと、言った。
 …私の幸せを、考えてくれていたんだ。


「何か、わかったみたいだな。」
 衛藤はそう言うと、タバコをポケット灰皿にしまいこんだ。
「本当はここ、禁煙なんだけどな。」
 彼女に微笑むと、目の輝きを確認した。真っ直ぐに衛藤の目を見返す。
「……」
 うなづくと、悠は淋しげに笑った。目に涙が浮かぶ。
「多分、これしかない。」
「…頑張れ。」
 そう言うと、衛藤は去って行った。


 信之は、早春の晴れ渡った空を見上げていた。
――少しは、僕のことを、思い出してくれているだろうか…。
 突然いなくなった悠を思った。心が、淋しかった。彼女のいた日々は、信之の知らないところで深く入り込んでいたようだ。
 何故いなくなったかはわからない。でも、自分はそれを望んでいた。彼女の幸せになる人生を、歩んで欲しかった。
 ここに留まるのは、わがままだと思った。
 これで良いと、思いたかった。
 だが…。
 信之の周囲を、突然の風が舞う。それが悠のいたずらのような気がし、少し笑った。


 悠は、早春の晴れ渡った空を見上げていた。
――まだ、覚えていてくれてるかな…。
 信之を想う。あれから、3年の月日が流れていた。
 悠は、思いつくもの全て行動に移した。
 無我夢中でやって来たことに、無駄はなかった。
 信之との差の16年を埋めるかのように。

 あの時、悠が決断したことは、自分が成長することだった。
 誰よりも、信之を大切に想っている。信之が自分を大事にしてくれたように。
 それには、甘えているだけの自分では出来ない。
 信之を支える立場にならないと、無理だと思った。
 その為に、あの家を出なければならなかったのだ。
 何も言わなかったことに、後悔がない訳じゃない。
 だが、それは必要だった。少なくとも自分には。

――思えば、始めから信じていなかったんだ…先生の、こと。
 今の自分には、自信を持って言える。
 『スタート地点は、これからだ。』


 桜の花びらが舞う中、悠は信之の背をめがけて、走った。


END

2004.07.07
あとがき





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