月夜の下で

哀永克樹

 ここは東の地、天下の江戸。
 僕はその中の、”御奉行様”と呼ばれるところにいる。
 一介の町民でしかないのだが、やれることはやろうと思っている。


 その日の夜回りは、いつもと同じに始まった。
 いつものように提灯と十手を持ち、おっかさんに
「行って来ます」
と言う。
 北から行ったものか、南から行ったものか。悩むが、北を選んだ。


 星空の見える月明かりの下、江戸は静かだった。
 二本刺しの侍、酔っ払いの商人、忙しく走る医者、何人かすれ違ったが、何の問題もない。
 川沿いを歩けば夜鷹が僕を誘惑するが、今の僕には仕事がある。
「兄さん、つれないねぇ…」
 悩ましい目で見つめられると、その気になってしまいそうになる。体が、自由を奪われる。
「ふふふ、仕事があるんだろ。」
「えっ…、あっ」
 夜鷹に言われて、我に返る。からかわれている僕は、まだまだだな。


 いつものように、いつもの道。
 夜中も寅の刻を過ぎた頃、井戸の近くにうずくまる人影を見たような気がした。
 走り寄り、井戸に近づく。影はその足音に気付いたのか、逃げようとした。
「待てっ!」
 だが、待たない。洗練された町中の軒が、その姿を隠す。
 狭い路地を右、権之衛の家の角を左、大通りを通り過ぎ直進し、走る。
 月明かりによって微かに映し出されたその女性の姿は、普通の町民ではなさそうだ。
 …と言っても、僕の今の状況では判断できなかったが。


「はぁ、はぁ…」
 相手は僕よりも体力が上らしい。
 乱れる息を整え、周囲を見たが、右も左も、灯りの消えた家が並ぶばかりだった。
 つまり、逃げられた、という事だ。近くの樽を、悔し紛れに蹴飛ばす。
「くそっ!」
「みゃっ!」
「?!」
 意外な声がし、樽を覗き込む。そして、絶句した。


 脅える目で僕を見たその姿に、驚く。
 汚れた顔に頬がこけ、手には綱が巻かれ、引きちぎったような後がある。服もボロボロ、長い髪もボサボサ。
 だが、僕が驚いたのはそんな事じゃない。
 その髪に生えた、2つの耳…。警戒するように、ピクピク動いている。
「な…」
「うぎゃっ!」
「いてっ!」
 彼女は、牙をむいて引掻いてきやがった。慌てて避けた腕に、爪あとが残る。
「ふぎぃっ!」
「ま、待て!」
 腕を力任せに振り、攻撃してくるタイミングを見計らい、僕は腕を掴んだ。
「僕は何もしない!」
 だが、その手を警戒する声を立てながら、何とか剥がそうとする。
「静かにしろっ!住民が起きる!」
 声が届いたのか、彼女は止まった。顔を上げ、不思議そうな目で、僕を見る。
「僕は、何もしないから。」
 戸惑いの表情を見せながら、彼女はおとなしくなった。逃げない事を確認し、僕は周囲を見渡す。大丈夫、町は静かだ。
 そして、再び彼女を見ようとした時、
―え?!―
 その目には、涙がたまっていた。


 彼女を樽から出してやり、近くの蔵の裏に並んで座る。ここなら人目につかないし、声も聞こえない。
 月の薄明かりの下、彼女を見る。
 歳は、僕より少し上だろう。女性らしいその線は、見事な肢体を保っている。
 ただ、申し訳程度に巻かれているボロボロな布の隙間から、傷や痣が目立つ。特に手首や足首には、綱の後が残り、痛々しい。
 僕は、引きずっていた左腕の綱を、無言で切ってやった。
 無言なのは、何と言葉をかけて良いのか、わからなかったからだ。彼女は、きっと、辛い経験をして来ている。僕にはそれがわからない。
「ありがとう…」
 可愛らしい声だった。僕がその声に驚いていると、彼女は少し笑った。
「言葉が、話せないとでも、思った?」
 目を見つめられ、戸惑っていると、彼女の目から涙があふれ、落ちた。
「…ごめんなさい…」
 そう呟く。涙が止まらない。目の前で、泣き崩れていった。僕はただ、見つめている事しか出来なかった。


 「…ごめんなさい…」
 しばらくして、泣き声で、彼女は再び呟いた。僕は首を振る。
「いや…。」
 よくはわからないが、彼女は悪くない。そんな気がした。
「…私を、捕まえるの…?」
 意外な言葉に、彼女を見る。その目は、真剣だった。
「どう…して?」
「…………」
 僕から目をそらす。腰の十手が気になるようだ。
「ああ、これ。」
 確かに僕は、こういう仕事をしている。だが、何の罪もない人を、捕まえるわけにいかない。
「僕が、あなたを捕まえる理由なんかないよ。」
「本当に?!」
 すかさず言われ、詰め寄られ、戸惑う。息がかかる距離だ。息が止まる。瞬きが出来ない。美人だから…なおさらだ。
「あ、うん…」
 ようやくの事で言った。目を見つめられ、見つめ返し、しばらく時が経った。
 遠くで卯の刻を告げる鐘が鳴らなかったら、どうしていただろう。
 彼女は我に返り、喜びの目から寂しげな目に変わり、うつむき、ため息を小さく一つついた。
 …と、僕の腕の傷に気がついた。
「あ…」
 自分がつけた傷だとわかり、手を置く。
「…ごめんなさい…」
 すっかり忘れていた。だが、痛みはそれほどない。あまり深くはないのだろう。
 それより、彼女のぬくもりの方が気になる。心臓の動悸を、聞かれないだろうか。
 空が白んで、星空が消えて行く。夜明けが近くなって来た。
「私、行かなきゃ。」
 寂しそうに、そうつぶやいた。うつむいた横顔は、行きたくなさそうに見える。
「…………」
 僕は、何も答えられなかった。
 立ち上がり、向かい合う。
「もし、私が、猫じゃなかったら…」
 聞き取れないほどの声で呟いて、首を振った。くしゃくしゃの泣き顔で、少女のような精一杯の笑顔を見せる。
「ありがとう…」
 そう言うと、彼女は背を向けて、夜明けの空へ走って行った。


 僕が叩き起こされたのは、昼を過ぎてからだろうか。
 奉行所からの伝令が来たからだ。
「この町に、化け猫が現れたらしい。見つけたら、すぐに捕らえてくれ。」
 昨日の、泣き顔の彼女の顔が浮かんだ。捕らえてくれ?
「それじゃ!」
 即座に行こうとする伝令を引きとめる。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!何で化け猫を捕らえなきゃならないんだ?!」
 すると、意外そうな顔をされる。
「だって、化け猫だぜ?」
 再び行こうとする彼を、また引きとめる。
「待てってば!」
「なんだよ、忙しいんだよ!」
「何で、化け猫ってだけで捕らえなきゃならないんだ?!」
 今度は、馬鹿にしたような表情を浮かべた。
「化け猫ってのは、それだけで罪なわけよ。ま、お前にはわからんかもしれねぇけどな。」
 ワケが分からず、戸惑っている間に彼は行ってしまった。すると、奥からおっかさんが声を聞きつけてやって来た。
「おお、いやだねぇ。化け猫なんて。」
「おっかさん!」
「化け猫は、『美しい姿で人を惑わし精気を食う』って言うからねぇ。アンタも取り憑かれないように気をつけなさいよ。」
 取り憑く…?彼女は、そんな風には見えなかった。泣いていた彼女は…とても…
「なんか心当たりでもあるのかい?」
 何の返事もないことに、疑問を感じたようだ。おっかさんの言葉に、我に返る。
「い、いや、何でもないよ。ちょっと出かけて来る。」
 心配をよそに、家を出た。


 それから、夜回りを何度しただろうか。
 人影を探してはため息をつき、落胆する日々が続いた。
 彼女は、生まれついての、その肢体だけで決め付けられ、捕らえられ、酷い目に合って来た。
 体中の傷や痣は、それを物語る。
 僕には、その傷が心の傷に見えてならない。
 もう一度、会えないだろうか。
 何度も、あの蔵の裏へ行き、一人泣く。
 会ったら、何を話し、何をしたら良いのかはわからない。
 でも、会いたかった。
 星空に、夜明けの太陽に、願いを託すが叶えられない。
 そして、最悪の日の夜明けが来た。


 夕方、おっかさんのお使いに町へ行くと、すれ違った女たちがささやいていた。
「化け猫、見つかったって聞いた?」
 思わず反応し、腕を掴む。
「いたっ、なにすんのぉ。」
「化け猫が見つかったって、どういうことだ?」
「あら、聞いてませんの?海岸に打ち揚げられていたそうですよぉ。」
 僕はもう、走り出していた。打ち揚げられていた?それは…。
 嫌な予感がし、首を振る。そんな、それは、馬鹿な、噂だよ、やめろ!


 海岸には、人だかりが出来ていた。
 人々の足の間から、長い髪と特徴のある耳が見えている。それで、理解してしまった。
 足は止まり、凍りついた。全身から力が抜ける。崩れたかった。
 だがそんな僕の肩を、誰かが叩き、それを防いだ。
 振り返ると、同僚の平ノ助がそこにいた。
「町中捜してこの結果か。ま、化け猫らしいよな。」
 そんな言葉は聞きたくなかった。僕は、この感情を、どうしたら良いのだろう?
 遺体を運ぶには、奉行は立ち会わなければならない。平ノ助に引きずられるように前へ行く。
 確認出来た。本当に、彼女だった。もう見ていられない。が、見届けなければならないような気がした。
 彼女は戸板に乗せられる。
 と、その時、彼女の腕が落ち、手のひらから何かが落ちた。平ノ助が拾い上げる。
「へぇ、真珠だ。」
 そうしているうちに、彼女はムシロをかけられ、運ばれて行った。
 見送っていると、平ノ助が僕に真珠を渡して来た。
「ヤツは、ニンゲンにでもなりたかったのかねぇ。」
「どういうことだ?」
 彼はニヤニヤしながら言う。
「西洋の話じゃ、真珠の粉を満月の夜に飲むと人間になれると言うらしいからな。確か、『人魚姫』ってぇな話だ。」
「人間に…。」
「ま、どうせウソだろうけどよ。でも化け猫はソレを信じて真珠を取り、溺れ死んだってこった。」
 僕は、その真珠を見つめた。彼女の、泣き顔が思い浮かぶ。
 あの時の、最後の言葉を思い出した。


『もし、私が、猫じゃなかったら…』

 例えウソでも、彼女は信じたかったに違いない。あらゆる可能性でも、信じたかったに違いない。あの傷や、泣き顔や、言葉を見れば誰でも…。


 僕は、もうどうなっても良かった。
 もう、限界だった。
 その場に崩れ、嗚咽しながら泣いた。
 彼女の為に、泣いた。
 誰が見てても、何を言われても構わない。
 世界中の誰もが彼女の敵だったとしても、僕だけは彼女の味方だった。
 僕は、あの時、なぜ何も出来なかったのだろう。なぜ、なぜ、なぜ…。


 そして、日々は続く。
 星空を見ては彼女を想い出す。
 あの時の『ありがとう』は、本当にあれで良かったのだろうか。
 彼女に問いたい。
 だから、生まれ変わったら、会いに来い。
 ずっと、待っている。


― 終 ―

2005.07.03

あとがき



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