珍しく二人で朝食を摂っている時、信之はある事を思いついて悠に言ってみた。
「今日、一緒に来るかい?」
「…?」
 思いもしない申し出に、すぐに答えは出ない。
「…と言っても講座じゃないんだけどね。」
 悠は、少し考えた。テレビもゲームもラジオも娯楽のないこの家では、確かに退屈ではあったし、情報すら入らない。
 出かけたい気ではあった。が一つ、問題点があった。それは、悠が外に出られない理由の一つでもあったが。
「…先生…」
「やっぱり、駄目か。」
 悠は首を振ると、パジャマの袖を振った。不思議そうに彼は見る。いつまで経っても答えは出ない。
「…先生、鈍感。」
 いじけたように呟いた。信之には、まだ理由がわからない。
「…先生、私、パジャマ。」
 そう言えば、信之は最初に会った服以外の服は、見たことがなかった。しかも、あの頃と比べてかなり寒くなっている。薄いワンピースでは、外は出られないだろう。
「僕の服、貸そうか?」
「…先生、意地悪。」
 身長180cmはあろう長身の信之に対し、悠は平均的な女性である。パジャマでさえ引きずって歩いているような状態だ。どう見ても合わないことは明確だった。
「…じゃあ、買いに行くか。」
 少し悩むと、信之はそう言った。時計を見れば、10時を少し回ったところだった。近くの百貨店なら開店している。
「うん!」
 彼女は嬉しそうにうなづくと、食事を放り出し、奥へと入っていった。


 悠が選んだのは、シンプルなYシャツとジーンズ、ラフなコートだった。最初に会ったのとはだいぶ印象が違って見えた。
「あれは、違う私。やっと、本当の私って感じがする。」
 そのことを告げると、悠はそんな風に答えた。心なしか、以前より明るく見える。その笑顔を見て、信之は安心した。
「先生も、服、買おう!」
 そう言うと、紳士服に走って行ってしまった。既にアレコレ選んでいる。
――苦手なんだよな…。
 そう思いながら、彼は彼女の元へゆっくり歩いた。


 帝徒大学は、文化祭の真っ最中だった。門では色々な生徒が屋台を出し、勧誘の呼び込みをしている。
 その中の一人、女子生徒が信之を見つけ、歓声を上げた。
「坂下教授ー!」
 走って来て、隣にいた悠を押しのけ腕を組む。さらさらな長髪が、ふわっと舞う。
「どうしたんですか?今日はそんなステキな格好して。カノジョと来たんですか?」
 信之には見えないように、悠を睨みつけた。あまりに突然なことに、悠は目が点になった。
「いや、そんなんじゃないよ。」
 彼は相変わらずな笑みを見せ、女子生徒を見た。特別な感情はないようだ。
「いつもは白衣のクセに…。格好いいけど、服が変わるともっと格好良いんデスから、アタシとのデートの時もきちんと決めて下さいネ!」
 デート、と言う言葉に悠は反応した。
――そう言えば、先生…。彼女がいてもおかしくないんだよね…。
 始めて気付いた。今まで、そんな素振りを全く見せなかった。彼の顔を見る。
「ははは…」
 困ったような表情を浮かべていた。少なくとも、彼女ではないようだ。
「教授ー!」
 どん、と悠は突き飛ばされ、背後からまたもや生徒らしき女性が走って来た。しかも、複数名。たちまち信之の周りに人だかりが出来る。
「こんなところにいないで、わたしのところに来て下さいよー!」
「そうじゃなくて、こっち!」
「だーかーらー!」
 様々な女性の声が行き交う。悠には事情がよく読みこめなかった。
「坂下教授、相変わらずね…。」
 落ち着いた声がした。いつのまにか、隣に女性が来ていたようだ。
「あなた、彼女?」
「……」
 聞かれ、悠は首を振った。真面目そうなメガネをかけた彼女は、信之を見ながら言う。
「そうよね…。」
 ため息を付くと、うつむいた。悠には、落ち込んで見える。
「…どうして?」
 そう聞くと、意外そうな表情をした。
「あれだけ顔が良くて、足が長くて、優しくて人当たりが良いとなると、好きにならない方が珍しいんじゃないかしら…。」
 言われて、始めて気付いた。確かに、周囲の男性よりかは一人浮いて見える。
「大学じゃ一番のキレのある講座で、若くて教授。生徒には理解するまで教える。女性はおろか、男性にも人気があって、理事長にも覚えがいい。他校にもファンはたくさんいるし、貴方もその一人かと思った。」
 悠をじっと見つめる。
「でも、貴方は興味ないみたいだし、落ち着いてるし、かと言って彼女でもない。…一体、どういう関係?」
 言われて、困った。どう答えたらいいのか。一緒に住んでるなんて言ったら、その鋭い視線で殺されそうだ。
 と思いきや、彼女は再びため息をついた。
「どっちにしても、東雲(しののめ)助教授がいるから…ダメかな…。」
「東雲助教授?」
 聞き返した時、20代らしき若い男性が信之を呼んでいるのが聞こえた。
「教授ー!ここにいたんですか!こんなコトしてる場合じゃないですよ!」
 女性を掻き分け、信之の腕を掴んだ。
「早く研究室に来て下さい!大変なことになってるんです!」
 そう言いながら連れて行こうとする。周囲の女性は罵声を浴びせていたが、仕方なさそうに視線を送った。
 悠の目の前を過ぎようとする。すると、信之は腕を掴んだ。
「キミも、おいで。」
 困ったような優しい笑顔を向けると、そのまま引きずられるように二人はそこから去った。


「教授!」
 先ほどの男性―研究員のミツルは、人気のないところまで二人を連れて来ると両腕を腰に当てて怒っていた。
「教授が女性の前に姿を現すと、あーいうことになるのはわかってるはずです!」
「…え?」
「……」
 しばし信之の顔を見つめた後、ため息をついた。
「相変わらずと言うか…。少しは自分のことを知って下さい!あの子達はみんな、教授を好きなんですから!」
「…それは知らなかった。…でも、慕ってくれるのは、まあ、良いことだと思うんだが…。」
 あまりの答えに、絶句した。
「…もう…いいです…」
 怒る気力もなくしたのか、ミツルはおとなしくなった。怒る対象は悠に変わったようだ。
「君も、ここまでついて来ない!」
「いや、彼女は違う。」
「え?」
 意外な答えに、ミツルは目を丸くした。
「僕が、連れて来た。」
 その答えが、一番意外だったようだ。目を見開き、口を開けたまま、信之を見ている。
「……」
「それより、何が大変なことになってるって?」
 信之の目つきが変わった。いつもの温和な表情は、消えている。その表情に安心したのか、ミツルはあらかさまにホッとした表情を見せた。
「教授…」
「何か、あったのか?」
「違いますよ。」
 笑顔を見せる。
「ああでも言わなきゃ、あの子達は教授を離してくれなかったでしょう。教授の研究狂いは、評判ですからね。」
「研究狂い…」
 悠が繰り返すと、ミツルは得意そうに言った。
「そう、研究の為なら自分の体さえ厭わない坂下教授。研究室に10連泊は当たり前だし、努力の人ですからね。」
「おいおい、僕はそこまでしてないよ。」
 信之が笑いながら言う。
「これだもの。俺がどんなに教授を心配しても聞いてくれないし、ぶっ倒れるまで研究してる人が、他にどこにいるっていうんですか!」
 どうやら、ミツルがこの大学での世話役らしい。怒っているのが普通らしかった。信之は軽く受け流している。
「…ったく、他に迷惑かけてることに気付かないんだから…。彼女にもさっき迷惑かけたことにも、気付いてないんじゃないんですか?」
 そう言うと、信之は意外そうな顔をした。
「…悠に?」
「教授ってば、どこまで鈍感なんですか。俺がこうして連れてこなきゃ、もっと…」
 言いかけ、その表情は一変した。蒼白している。視線は二人を超えて向こう側に向いていた。
 カツカツ、とハイヒールの足音がし、二人の背後で止まる。振り返ると、そこには白衣を着た長身の美人が立っていた。
「坂下教授。」
 トーンの低い声が響く。
「ちょっと、いいですか?」
「ああ、何かトラブルでも?」
 東雲助教授がメモを取り出す。
「ここの塩基配列なんですが、AとBの不具合があって…」
「ああ、これなら知っている。実験でのデータによると、BとOに異常が見られる。だから…」
 訳のわからない専門用語が飛び出し、悠には理解不能になった。
「少し、研究室を見て来る。ミツル、悠を頼む。」
 信之はそう言うと、背を向けた。やや遅く、東雲助教授は悠に侮蔑した笑みを見せ、去って行った。
「無理なのになぁ…。」
 しばし見送っていたミツルだったが、つぶやいた。悠が不思議そうに見る。
「東雲助教授も、坂下教授を狙ってるんだよ。」
 さっきの女子生徒も、その名前を出していた。様々な表情が、悠の頭の中に浮かぶ。
「先生、そんなにモテるの?」
 ミツルも、驚いたように悠を見た。
「君、教授の、何?」
 聞かれて、困る。同居人、と言っても理解しないだろう。
「…友達。」
 精一杯の答えが、これだった。それ以上に答えられない。
「恋人じゃ、ないんだね?」
 悠はうなづく。ミツルは足の先から頭の先まで悠を見て、何か考えていたようだったが、つぶやく。
「君ほどでもダメじゃ、教授はやっぱり気にしてるのかな…。」
 何が?と首をかしげると、ミツルは言った。
「あくまで噂で、俺は直接教授に聞いたことはない。でも、教授を見ると、本当のような気がしてならないんだ。あの通り、鈍感と言うのもあるけど…」
 一度、区切る。
「女性に興味がない、って点でね。」
 どういうことなのか、悠には理解しかねていた。


 ミツルは、重い口を開いた。
「これは、俺が入る前の話なんだ。

ある時、教授に熱烈に恋した女子生徒がいた。
始めは講座からの片思い。あらゆる講座という講座に出席し、自分をアピールしようとしたんだ。
でも教授はあの通り鈍感で、出席を取っても同じ顔がいても気付かない。
その女子生徒は勇気を出して教授に直接会いに行き、研究室を手伝うまでになった。
洗濯や食事も弁当まで作って来て、自ら世話していた。
自分の中では、もう、恋人気分だったらしい。
教授は、と言えば、ある企業からの協力を理事長から強いられていて、それどころじゃなかった。
研究の成果も思わしくなく、考えられる事をあらゆる実験、不眠不休が続いた。
そんなことが続いても、女子生徒の想いは募るばかり。
そして、そんな状況の中で女子生徒は、教授に告白した。

教授は、何と答えたと思う?

自分の気持ちを、そのまま伝えた。
『研究がすべてだ。君の気持ちを受け入れている暇はない。』

次の日、教授は研究室に入った。
ナイフの刺さった血まみれの女子生徒が、そこに倒れていた。
警察はもちろん、教授を疑った。嫌疑をかけられ、研究どころじゃなくなった。
それが、彼女の復讐だった。
結局は自殺だったらしいんだけど、それが元で女性不信になったらしいんだ。」

 ミツルは深いため息をつくと、悠を見た。
「君がカノジョだったら、女性不信が治ったと思ったんだけどな。」
 そんな過去があったとは。悠は、信之の優しい笑顔を思い出した。
「それ以来、教授は色々な人の気持ちを重視することにした。研究が全てではなく、それに携わる人々の一人一人に気持ちがあるってことに気付いてね。」
 誰も見捨てたくない、と言った信之の横顔を思い出した。表情には出ないが、悲痛な想いがあったに違いない。
「教授も、俺なんかじゃなく、世話してくれる人を見つければいいのになぁ…。」
 世間的に言えば、それは同居している自分と言うことになる。19歳と35歳。年齢的に無理はないか。
 ふと気付き、さっきの女性を思い出した。
「東雲助教授は…?」
 侮蔑した笑みを思い出す。それだけに、信之を好きだと言うことになる。
「俺は反対。助教授はプライドばっかり高くて、家庭に入るタイプじゃないよ。」
 この言い方からすると、ミツルも彼女を嫌いなようだ。確かに、初対面であのような表情をする人を、悠は過去にたくさん知っていた。
「まあ、坂下教授と付き合うとしたら、かなりの忍耐が必要になると思うけどね。」
 いたずらっぽい笑みをミツルは見せた。
「あの通り、鈍感だから。」
 悠も、笑う。そこへ、信之が戻って来た。何故か、両腕には食べ物がたくさん乗せられている。
「悠、ミツル、待たせたな。」
「教授、どうしたんですか?コレは…」
「研究室にいたら、生徒が持って来てくれたんだよ。悠、腹減ってるだろ。」
 相変わらずに優しい笑みをくれる。その笑顔は悠の心を切なくさせた。答えた表情が、笑みに見えただろうか。
「助教授は?」
 ミツルが聞く。
「生徒が押しかけて来たからね。気付いたらいなくなっていたよ。」
 可哀相に、と皮肉を込めた表情をミツルは見せた。


 それから、悠と信之とミツルの三人は、校内を色々見てまわった。
 信之の研究室の展示物は、あらゆる化学式と実験体の写真で埋め尽くされていた。
 悠には、さっぱり意味がわからなかった。が、話すと長くなりそうな信之の説明を断り、次に行くことにした。
 そうしていくつかを回り、歩き、外に出る。暗くなりかけた校庭に、キャンプファイアーが燃えていた。昔流行った曲の、リバイバルがBGMでかかっている。
「俺、何か飲み物を買って来ます。」
 ミツルはそう言うと、走って行ってしまった。二人きりにされ、彼女は何を言ったらいいのか、わからなくなっていた。
「……」
 信之もまた、無言だった。こころなしか、その表情は辛そうに見える。目を閉じ、深呼吸を一度した。
 異変に気付いた悠は、何かを言おうとしたが、言葉が出て来なかった。
「大丈夫、だよ。」
 彼女を心配させないように、微笑む。苦笑いのようにも見える。一体何が、信之をそうさせたのだろう?
 その時、ミツルが3つのジュースカップを抱えて戻って来た。信之の表情を見て、しばらく無言だったが、納得したように言った。
「教授、この曲が苦手でしたね。俺がこの間、打ち上げで歌おうと思ったら、突然出て行っちゃうんだもん。ビックリしましたよ。」
 それぞれにジュースを手渡す。
「理由、まだ教えてくれないんですか?」
「……」
 無言で軽く笑むと、ジュースを受け取る。悠を見ると、安心させるように微笑んだ。
「大丈夫だ。」
 それ以上、何も言おうとはしなかった。


 夜、家に戻ると、二人は一つのベッドに横になった。
「……」
 電気も点けずに、無言が続く。悠、信之、それぞれミツルの言葉を思い返していた。
「悠…」
「先生…」
 二人が発した言葉は、同時だった。再び、無言になった。
「先生から、話して。」
 悠がそうつぶやくと、信之は閉じていた目を開いた。
「ごめんな…。」
 意外な言葉が出て、悠は思わず信之に目を向けた。その頭をなでる。
「僕は、君に楽しんでもらおうと思ったんだ。」
 その瞳の奥は、悲哀に満ちている。
「この家にずっと一人でいて、僕に色々なことをしてくれる。でもキミは若くて、同じ年頃の子と話もしたいだろうと思ったんだ。」
 今日、大学に連れて行った理由が、わかった。
「ミツルに言われるまで、キミが迷惑するなんてことは、考えもしなかった。…すまなかったね…。
 悠は無言で首を振る。
「迷惑なんて…。」
 笑顔を向けた。
「大学なんて、行ったことなかったもの。嬉しかったよ。」
 その笑顔が、少し曇る。
「私が聞きたいのは、そんなことじゃない。」
 言いながら、少し迷っていた。ミツルから聞いたことは、本当なのだろうか。確かめてみたい気もした。だが…。
「なんだい?」
 この笑顔を曇らせてしまうのは、罪なような気がする。
「一つ、聞いていい?」
 そう思いながら、言ってしまった。
「自殺した女子生徒がいた…って、本当?」
 信之は驚いた顔をした。そうだろう、自分が言っていない過去を、悠が知っているのだから。
「ミツルさんに、聞いたの。それが元で、先生は…」
 悠は視線を逸らす。彼の心を慮った。辛い過去に触れるのは、勇気がいる。だが、それを抱え込んでいては、何も始まらない。
「先生が辛いのは、わかる。でも…」
 言葉が続かなかった。言ってしまった自分に、後悔する。どれだけの気持ちが、今、信之の心を辛くさせているだろう。
 それを思うと、耐えられず、目を閉じてしまった。
「…先生…」
 何も言わない信之の優しさに、彼女は目を開いた。視線を合わせる。信之も、視線を合わせた。
 そして、言った。
「それって、何の話?」
「……え?」


 悠は、ミツルから聞いた話を信之に聞かせた。すると、彼は笑った。
「それ、嘘。…と言うか、僕じゃない。」
「先生…じゃない?」
 悠は呆然としていた。
「何年か前に、僕と同じような研究員がいたらしいんだ。同じ研究室で。同じように研究虫でカノジョをないがしろにした…って話は聞いたことがある。その話と混ざっているんじゃないかな。」
「……」
 彼女の思考回路が働かない。口を開けたまま、視線が定まらない。そんな悠の頭を、信之はなでた。
「心配してくれたんだね。…ありがとう。」
 だが、その言葉は耳に入らなかったようだ。
「え?じゃ、私、一体…。結構悩んで、でも先生が先へ進まなきゃって、思って、話す勇気もあって、何で…」
 信之に視線が行った。一層に笑みが浮かんでいた。その顔が、急に憎たらしく感じた。
「元はと言えば、先生が鈍感なのが悪いのよ!」
 突然起き上がり、枕を持って殴りつけた。
「お、おい…」
「誰か彼女でもいれば、別にこんなこと考えなくて済んだし、誰か好きな人がいれば、応援することも出来る。でも先生は、いつもニコニコして、誰の気持ちも受け入れなくて、心配ばっかりかけてる!ミツルさんも、心配してる!なのに、先生は…。」
「……」
「先生は、いっつも、マイペースで、優しくて、でも、誰も心、開かなくて、どうして…。」
 悲痛な心が、叫びに変わる。
「どうして、何も言わないの?何も聞かないの?私のこと、何にも…。」
 うなだれる。
「先生、私、先生のこと好きだよ。でも、それ、恋愛感情とかそんなんじゃない。先生が私を守って考えてくれてるように、私も、先生のこと、守りたいし助けたい。それは…」
 信之を見る。
「…不可能なことなの?」
 髪を振り乱し、顔を上げた。ぽろぽろと涙が落ちる。起き上がり、悠を、力強く抱き締めた。
「……すまない。」


 先生は、いつも私に何もなかった。
 笑顔を向け、私の好きなことをさせてくれた。
 でも、私が外に出たがっていることに気付かなかったし、着ている服がいつもパジャマだったことでさえ気付いていなかった。
 一緒に住んでるのに、心を、開いてくれない。
 先生が、自分に干渉しないのは、自分も干渉されたくないからだと思った。
 それがここに住むルールだと思っていた。
 でも、それはやっぱり違う。
 私と、大学の生徒は、何も違いはなかった。いや、それ以下かもしれない。
 それが、悔しかった。
 そんな想いを、優しい笑みで誤魔化されてる気がした。
 それが、悲しかった。

 僕は、何も気付かなかった。
 研究が、全てだった訳じゃない。
 なるべく、悠の心を刺激しないよう、傷つかないよう、守って来たつもりだった。
 ただ見守って、心を癒し、胸を張って生きて行けるようにしたかっただけだった。
 辛い顔、泣いている顔を、見たくなかった。
 なのに、僕は泣かせてしまった。
 心を開かない訳じゃない。
 キミに、辛い想いをさせたくなかったんだ…。


「先生…」
 泣き顔を、悠は上げた。
「私、本当は、何もかも話してしまいたかった。」
 信之は黙って聞いている。
「過去に、何人も騙されたこと。それでも人を信じたくて、次の人に望みを託してしまうこと。それを利用されて、また、弄ばれてしまうこと。」
「……」
「何度も、人を信じたくて、自分の過去を話して来た。でも、ダメだった。話した人は、最初は同情するけど、結局私に同じことする。気持ちを利用して、お金を貢がされ、体も奪う。だから…」
「だから?」
 優しく問い掛ける。
「先生も、そうじゃないかって、疑った。始めは優しい顔をして、結局私から何もかも奪うんじゃないかって、思った。男なんて、欲望だけが支配して、私の心なんて関係ないんだって、思った。」
「……」
「先生が私をここに入れたのも、本当は体が目的なんじゃないかって、思った。快欲ばかりが狙いで、あとはどうしようと構わない。身元不明な女なんて、どう扱われてもいいんだ、なんて思った。」
「悠…」
 信之は、ようやく理解した。最初の頃、徹底した拒絶反応は、こうした過去から来ていたことを。
「結局、私の人生なんて、こんなことの繰り返しなんだって思った。誰も彼も、私のこと大切に思ってくれる人なんて、いないんだって思った。心なんて、関係ない。私がどう思おうと、相手には関係ない。相手が温かいのは、相手のぬくもりなんて、私を騙すためにあるんだって…」
 一気にまくし立てると、悠は黙った。どうにもならない感情が、抑えきれない。涙となって落ちる。
「先生のこと、信じてなかった…。」
 彼の胸に顔を埋めた。腕に力をこめ、信之は首を振る。
「僕は…」
「でもね…」
 悠が、泣き声で言う。
「先生は、本当に何もしなかった。普通の男性ならやりそうなこと、何もしなかった。私のことを聞くことも、気持ち無視することも、強制することも、殴ることも、キスも、抱くこともしなかった。ただ私を、見守るだけだった。」
「……」
「わがままな私を、許してくれた。始めて会った時に床を水で濡らしても、何も言わなかった。料理を下手に作っても、掃除を雑にしても、お風呂の水を使いすぎても、何も言わなかった。温もりが怖くて手を触れただけでも拒否してしまったこと、何も言わなかった。」
 信之の目を、真っ直ぐに見る。
「私、何の言葉も出してないのに、先生のことを信じてた。先生が何も言わないことで、私、信じられた。だから…」
 彼もまた、悠の目を真っ直ぐに見返した。
「そのことに、甘えてた。先生が優しいから、当たり前になってた。けど…」
 悠は戸惑い、目を伏せる。
「今日、大学行ってわかった。私、先生のこと、何も知らない。先生は私を助けてくれたのに、何も知らないんだってわかった。そんな私が無力で、情けなくて、どうしようもなくて…。」
 声がかすれる。
「ごめん…。」
 悠の力が抜ける。その体を、力強く支えた。


「…すまない…」
 しばらくの沈黙の後、信之はそう言った。
「何も知らないことも、罪なんだな…。」
 悠は、ただ黙って聞いていた。
「キミが、そんなに悩んでいたとは知らなかった。僕はただ、キミに居場所を与えたかっただけだ。」
 意味がわからず、少し顔を上げる。
「居場所があれば、どこへでも行ける。帰る場所があれば、羽ばたける。そう思ったんだ。キミに自由にして欲しかった理由は、そこにある。」
「自由…」
「キミは僕に縛られることなく、本当に何でもして良かったんだ。キミに何かを聞けば、僕達は別の感情が生まれる。ヒューマニズム、しがらみ、建前と本音、嘘偽り、そして男女の関係…。」
 悠は、信之の顔を見た。真剣な横顔が、そこにある。
「一つ屋根の下にいれば、まがいなりとも生まれて来るだろう?僕は、そんな理由でキミをここに置いている訳じゃない。勘違いして欲しくなかった。キミが考えるように、キミを抱く目的でここに置いている訳じゃない。だから、何も聞かなかった。」
「先生…」
「心穏やかに過ごせる日々を送れれば、と思った。自分に自信を持って、ここから人生を歩いて行ければ良いと思った。だから、見守った。」
「……」
 信之の優しさを、悠は見誤ったことに気付いた。表面上だけではなかったのだ。
「でも、僕は、キミに何かを聞くべきだったのだな。キミ一人を、苦しませてしまった。」
「それは違う。」
「いや、違わない。」
 真剣な目に圧倒され、彼女は黙ってしまった。
「僕は、自分の中の世界に捕らわれてしまっていただけだ。そうすることがベストだと思い込み、その結果、キミを傷つけてしまった。」
「そんなこと…」
「キミを、泣かせてしまった。辛い想いを、させてしまった。そのことに、変わりはない。」
 自分の言葉が、信之を追い込んでしまったことに、悠は後悔した。浅はかな自分を、呪った。
「でも…」
 視線を逸らし、目を閉じる。
「先生は、私を救ってくれた。そのことに、変わりはないよ。」
「……」
 信之は首を振る。だが悠は続ける。
「人の気持ちなんて、完璧じゃない。それを助けるのも、完璧じゃない。言葉に出しても出さなくても、変わりない。大切なのは、自分の気持ちをどう理解しているか。どう理解されてるか。先生は、私の辛い気持ちを、わかってくれた。それが、結果だよ…。」
 想いが、言葉にならない。表現出来ない自分を悔やむ。
「それでも僕は、一番身近な人を、救えなかったんだ。」
「先生…」
 悠には、もう言葉が出なかった。支えていてくれた腕が、落ちた。
「僕は、何も出来ない。何も、変わらない。今でも…」
 信之の表情が、落ちて行く。視線は、もう、悠に向いていなかった。
「…先生?」
「僕は、彼女を、救えない…」
 全身の力が抜け、壁によりかかり、呆然としていた。そんな彼を見たのは、始めてだった。
「先生?」
 悠の声も、届いていないようだった。おもむろに悠を見る。その視線は合っていない。
「僕が…」
 聞き取れないような、かすれた小さな声だった。
「キミを好きになれたら、どれだけ楽だろうか…」
「…!」
 その一言で理解した。信之には、やはり彼女がいたのだ。だが、このトランス状態は何なのだろう?
 悠は視線を合わせようとするが、駄目だった。ゆらゆらとして、定まっていない。いや、現実を見ていなかった。
「先生…」
 信之の目から、ぽろっと、一滴、涙が落ちる。続いて、頬を伝って落ちた。誰も寄せ付けない、聖域のような物が取り巻いていた。
 がくん、と首が落ち、体が倒れる。気を失ったのだ。
「先生!」


後編





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