星が輝くように。

哀永克樹

――思えば、始めから信じていなかったんだ…先生の、こと。

 初秋に近いこの季節、突然降り出した雨は、少女を攻撃するかのごとく激しく体に雫を打ち付けていた。
 行き交う人々は雨を凌ごうと、先を急ぐ。だが…彼女はそれをしようとはしなかった。誰も、気にも止めない。ただ呆然と、彷徨っていた。
 どこまで歩いたのだろう。彼女には、記憶がない。どこをどうやって歩いたのかさえも。


 夕方から夜に変わっても、雨は和らいではいたが相変わらず降っていた。
 何の思いも、感情もないまま、少女はただ足を進めていた。
 雨は彼女の体を通り抜け、滴り落ちる。
 うつむいたまま、長い髪から落ちる雫を見つめ、何も考えられない。
 そんな彼女の足が、ふと止まった。
 雨が、自分を打つのを止めていた。顔を上げる。
 古い軒先の庇が、雨から少女を守ってくれていた。


「……」
 何も、考えてはいなかった。
 昭和の時代を感じさせる、古びた擦りガラスの扉を、開けた。
 カラカラ…といくらかの音を立てて、扉は開いた。
「!」
 その音で、少女は我に返った。あわてて閉める。柱の影に身を潜め、暗闇に迫る気配を探った。しかし、いくら時間が経っても、何も無かった。
 そっと、擦りガラスの向こうを覗き込んで見る。街灯の微かな光は彼女の影を作ったが、ここから見る限りでは、明かりはついていない。
 もう一度、扉に手をかけ、少しずつ開けてみた。だがやはり、反応はない。
 『空家』と言う文字が、彼女の頭に浮かんだ。
 少し開けた扉に体を滑り込ませ、中に入ると扉を閉めた。とん、と音を立てて雨の音は小さくなった。
 靴を脱ごうとして…その時、始めて記憶が戻った。靴を履いていなかったのだ。
「ああ、そうか…」
 何もかも置いて来てしまったのだ。今、彼女の全財産は、着ている短いワンピースのみ。
 きらびやかな宝石も、ブランド物のバッグも、流行の服や靴も、今は何もない。
「……」
 少し、気分が重くなった。目の前の敷居を見つめ、足を踏み出す。


 そこで少女が見た物は、布のカバーをかけられたベッド、図書館並みの本の量と乱雑した原稿用紙、密閉された調味料と雑然とされた食器類、だった。うっすらと埃をかぶっているようだが、何年も放っておいている様子はない。
 しかも、それらは最小限な行動で動けるように配置されている。玄関から一番近い部屋に本とベッド、その先の台所。と言うことは、もう少し先に行けば風呂場でもあるのだろうか。
 だが、少女にとっては、今、それは大事なことではなかった。一番重要なのは、ここに誰かが住んでいると言う事実……。
 考えが行き着いた時、玄関で音がした。何者かが侵入、続いて声がする。
「今、帰って来たばかりだよ。これから戻れったって、この雨じゃ無理だよ。」
 少し低いが、よく通る声が廊下に響く。
「あっ…と、いや、大したことない。」
 廊下で一度立ち止まったようだが、足音はゆっくりと彼女のいる台所に近づいて来る。
「明日、行くから。僕はどんな時でも約束を破ったことはないだろう?」
 重々しい音を立てて、何かが台所の入口に落ちた。
「それも大事だけど、僕の…」
 そう言いながら入って来た男と、少女は、目が合った。街灯の薄明かりが、彼女の顔色を更に悪く見えさせる。
 音を立てて、携帯電話が彼の手から滑り落ちた。
 しばし二人は見つめあった。少女は目を見開き、男はただ呆然と。
 先に逸らしたのは、彼の方だった。声がする携帯電話をゆっくりと拾うと、部屋の中心にあった電気の紐を引く。周囲を明るく照らす。
「とにかく、明日、行くから。もう少し我慢してくれ。」
 優しくそう言うと、彼は携帯電話を机の上に置いた。彼女を背にし、動きが止まった。何かを考えているように見える。シンプルな着信音が二人の間を埋めた。10回コール。止まる。
 すると彼は振り返り、手にしていたバスタオルを少女にかけた。
「風邪、引くよ。」
 そう言うと、優しく微笑んだ。


 少女は真っ直ぐ、台所の隣の風呂場に連れて行かれた。彼は無言で掃除し湯船に水を入れると一度消え、湯船に八分ほど水を張ったところでまた戻って来た。
「すまないね、待たせてしまって。」
 そう言うと、旧式のコックを数回ひねり、ガスを沸かした。これでお湯が温まれば入れるはずだ。
「好みの温度で入ってくれればいい。僕を気にするなら、中から鍵をかけられるから。」
 持って来たらしいバスタオルを何枚も重ねて彼女の肩にかけ、扉の鍵の場所を教え、彼はここから去って行った。
 足元を見れば、自分から滴り落ちた雨の水溜りが出来ている。その隣にはシンプルな柄のパジャマが置かれていた。
 少女には訳がわからなかった。何故、自分を責めもせずに、優しくしてくれるのか。何故、何も聞かないのか。
 様々なことが頭の中を巡っている間に、雨は確実に体温を奪っていた。肩にかけられたバスタオルが、温かい。
 覚悟を決め、風呂に入ることにした。


 袖と裾をかなり折りたたんで着た彼女は、台所に入った。目に映ったのは、机の上に置かれたコンビニのおにぎりと、その隣の乱雑な字で書かれた手紙だった。
『このくらいしかもてなしは出来ないが、良かったら泊まって行くといい。』
 家の簡単な間取りが書かれており、彼女が泊まる部屋までが示されている。風呂場の向こう側の部屋のようだ。
 ふと床を見れば、水を拭いた後があった。廊下にも、同様の後がある。気付かなかったのだが、少女の雨の雫はあらゆるところに点々と残していた。そのすべてが、雑だが拭き取られていた。
 それがわかった時、急に罪悪感にかられた。
 少女が和室に行くと、彼は自分のベッドで寝てしまっていた。本当に疲れきった様子で、大の字になって静かに寝息を立てている。台所で携帯電話が鳴っていたが、気付かないようだ。
 謝ろうと思ったのだが、これでは起こすに起こせない。仕方なく、その姿に布団をかけてやった。そして少しでもここの主人を知ろうと、周囲を見渡した。本と言う本が周囲を埋め尽くしている。台所の明かりで見える背表紙は、様々な種類を映し出していた。
 『資本主義』 『科学における根拠と虚偽』 『生態系と自然』 『集団生活における心理学』 『ヒトデ論議』 『宇宙論』…
 彼女が読んだことのないような、論文ばかりだった。机の上にも本、そして原稿用紙が散らばっている。
『猿の図形認識について 坂下信之』
 2行しか書かれていなかったが、彼の名前はわかった。その名前が本棚の中にあったような気がし、振り返る。
 一番上の棚、一番隅にその本はあった。その本だけ読み込まれておらず、綺麗なままだ。
『脳内における電気信号とその符合について  坂下信之』
 頭が良い人と自分とは理解し難いのだろうと少女は思い、裏表紙を開けた。そこには少し若い彼の写真が載っていた。心なしか、憂いを帯びている。その下には、簡単な経歴が載っていた。
 それによると、彼は逆算して現在35歳。14歳で単身アメリカへ留学し、20歳で3つの博士号を取得。この論文はその時の物、と書かれている。
――16歳も違うんだ…
 彼女は彼の寝顔を見た。半ば容姿が整っている信之とは、それほど差がないように見えていた。そう思うと、距離が少し遠く感じる。
――博士号…?
 それがどういう意味を持っているかはわからなかったが、自分とは頭の造りが違うのだろう。そんな人が、何故自分を泊める気になったのか、謎は深まるばかりだった。彼の今までの笑顔には、裏が無いように見えた。しかし…安心していいのか。少女の今までの経験から、それは容易ではないことを意味する。
「ん…」
 しかめた顔をし、信之が寝返りを打つ。すぐに表情は戻り、再び規則的な寝息となった。
 彼に関しては、今のところ安心していいようだ。
 少女は、しばらくその場を動けなかった。どうしたものか、思案していた。
 雨音が屋根を打ち、音を立てている。
 自分を情けなく感じるが、この雨の中を再び歩く勇気はなかった。体中が、心が、疲労を訴えている。
 とりあえず、この束の間の休息を、少女はこの家で味わうことにした。


 晴れた日差しで目が覚めた頃、信之は既にいなかった。彼が出て行ったことに気付かなかったのだ。
 明るい中で見渡すと、小さな洋室のこの部屋は、普段使われていないようだった。家具が何もない。
 扉を開けると廊下が見え、その奥にガラス窓、小さな庭が見える。庭、と言っても荒れている。何年も手入れがされていないようだ。
 廊下を歩き風呂場を過ぎると突き当たりに台所、その前には信之が昨日置いた物らしく、大きなリュックが置かれていた。湿っており、泥だらけで紐は固く結ばれている。容易に解けそうにない。
 手をつけるのもどうかと思い、台所に入ると、昨夜のコンビニおにぎりに変わって、不器用なおにぎりが皿の上に乗っている。そして、手紙。
『少しは食べないと、体に悪い。』
 続いて、小さく文字が続いている。
『梅干しが苦手だったら、ゴメンな。』
 見た瞬間、ふっと肩の力が抜けた。笑みがこぼれる。距離を感じていた信之が、自分に気を使っている。不法侵入で、年下の自分を。
 心に温かいものを感じ、おにぎりを手に取った。既に冷めていたが、何となく、安心して良いような気がした。


 少女は、考え上げぬいていた。ひとまず体は落ち着いたものの、これからのことを考えなければならない。
 家を飛び出し、言われるがままに傷つけられ、騙された日々には、もう戻りたくない。
 信之は優しいが、ここにいつまでも置いておく気はないだろう。出て行け、と言われればそれまでである。
 それに、いつ豹変するか、わからない不安もある。
 ……少女には、行き場がなかった。
 だぶついたパジャマをそのまま着続け、座り込み、呆然としていた。


 信之がその姿を見つけたのは、夜中0時を少し過ぎた頃だった。いつものように玄関を開け、いつものように和室の電気をつけ…明かりに映し出されたのはベッドを背に座り込んだ彼女の姿だった。顔を腕の中にうずめ、表情が見えない。
「…寝てる?」
 彼の優しい声が耳に届いた。彼女は首を振ると、そのまま動かなくなった。
「…何かを、恐れている?」
 言葉は、的を得ていた。彼女の腕に、力がこもる。肩が、震える。少女は、自分の世界から抜け出せないでいた。
「……」
 そんな彼女の頭をなで、信之はベッドから毛布を肩にかけてやった。
「何が、怖い?」
「……」
 返事はなかった。ため息を小さく一つつくと、彼女の隣に座った。それから、何もしない。
 お互い、時間だけが過ぎて行った。


「聞いていい?」
 沈黙を破ったのは、少女だった。その声は、ひどく落ち込んでいる。
「ん?」
 彼は天井を仰いだまま、答えた。
「…どうして、私を…?」
 彼女は顔を上げなかった。答えを聞くのが怖かったからだ。その気持ちを理解するかのように、信之は少々沈黙した。
「…どう答えたら、いいかな。」
 迷っていた。少女は少し顔を上げた。彼は本当に困っているようである。
「どんな答えも、キミは納得しないかもしれない。」
「……?」
「でも、僕はやっぱり、誰も見捨てたくはないんだ。」
 その表情が凛々しく、真面目になる。座りなおし、姿勢を整えた。
「僕にはキミが困っているように見えたし、雨の中に追い出す訳にもいかなかった。だってキミは、切羽詰った顔していたしね。幸いこの家には僕一人しかいないし、誰も迷惑することはない。…これが答え、と言ったら納得するかい?」
 彼はまっすぐ少女の目を見た。その言葉に、嘘はないように見える。
「僕自身は、正直あまり何も考えない。いつも土壇場で何とかする。…まあ、そのせいで後悔も多いんだけどね。」
 彼女から目を逸らし、苦笑した。それが彼の素顔のようである。持って来たビニール袋から音を立てて何かを取り出し、彼女に渡した。
「僕はキミに何かしようとは思わないし、出て行って欲しいとも思っていない。それは、キミの意思に任せるよ。」
 ミルクティの缶が、彼女の手を温めた。
「キミの、自由にしていいよ。」
 同じ缶が彼の手に握られており、音を立てて開けると、一口飲んだ。味わい、深いため息をつく。
「……」
 安心感を覚えたのは、彼女の体からだった。腕の力が抜け、肩の力が抜ける。とは言え、完全に警戒心が抜けた訳ではない。顔を上げ、信之を見た。
 彼は上着を脱ぎ、ネクタイを解き、ボタンを外す。首からは、身分証明書がかけられていた。
「帝徒大学、理学部…?」
 彼女がつぶやくと、彼もそれに気付いた。
「ああ、これ?今は大学に行ってる。たまに教壇に立つこともある。」
「…先生…?」
「まあ、そんなガラじゃないんだけどな。僕は研究室にこもる方がいいんだけど…大学側から強制的にされることが多い。今じゃ『教授』と呼ばれている。」
 無邪気に笑った。その姿は、教授と言うより生徒の方が似合うかもしれない。
「研究で泊り込みもあるし、突然呼ばれることもある。だから、家にいない時間の方が多いんだ。」
 少女の見る限りでは、信之は嘘はついていない。優しそうな顔つきも、笑顔も、目の奥の感情も、安心して良い気がしていた。
 手渡された缶を開けようとし、綺麗に整えた爪が割れそうになる。どうしたものか、見つめていると、ごく自然に彼は取り、開けると彼女に差し出した。一口、飲む。
「おいしい…」
 口に広がった甘さは程よく、彼女の全身に広がる。その姿を見て、彼も安心したようだ。
「良かった。これ、あまり売ってないんだ。…遠回りして、良かった。」
 彼が優しく微笑む。つられて、彼女も微笑んだ。


 先生は、何もしなかった。
 今まで見て来た男は、始めは紳士ぶってるけど結局私を抱こうとした。
 自分が思い通りにならないと怒り、殴り、貶し、見捨てた。
 同棲していた彼もまた、同じだった。
 オモチャの如く弄び、自分のスタイルに合わせようと宝石やブランドを私に買わせた。
 おかげでバイトした金はすべて消え、何もなくなった。家も、プライドも。
 先生は、そんな私でもここに置いてくれた。
 体が目的でもない(ように思う)、私を傷つけて遊ぶ訳でもない、ただここにいる存在を、認めてくれている。
 時々、先生に全てを話してしまいたくなる。今までの、過去を。
 先生は、どう思うだろうか。
 相変わらず、優しい笑みを、私に見せてくれるだろうか。
 それとも…。
 この、暖かい日々を、壊したくない。


 彼女―『悠』は、僕を『先生』と呼んだ。
 研究で何日か帰れない日々も、悠は家にいた。
 たまに帰ると不器用に掃除した後があり、上手ではない料理を用意していた。
 僕も不器用だが、彼女もかなりの不器用である。
 が、その心遣いには感謝している。
 一時は、講座の生徒が迷い込んで来たのかと思ったが、そうではないようだ。
 時折、彼女は僕と話をしたがる。
 切羽詰まったり、焦ったり、急に黙り込んだり。拒否するかと思えば、そばにいたがったりする。
 どういう意味なのかはわからなかったが、僕がいることで彼女が安心するなら、それで良いと思った。


「先生…」
 夜に論文をまとめていると、いつものように彼女が襖を開けた。
「…入っていい?」
 進めていた筆を止め、振り返った。
「どうかした?」
「…まだ、寝ないの?」
 時計を見れば、夜中の2時をまわった頃だった。
「そうだな…。もう少しで、寝るよ。」
「邪魔…かな…」
「構わないよ。」
 悠は中に入り、僕の真後ろであるベッドの横に座った。筆を止めたことに気付き、言う。
「論文、書いてていいよ。待ってるから…」
 彼女の言葉に従い、しばらく筆を進める。一段落ついた時には30分も過ぎていた。
「悠、終わったよ。」
 振り返ると、座ったままうとうとしてしまっていたようだ。信之の声に、鈍く反応する。
「…寝る?」
「……」
 首を振った。
「話、する?」
「……」
 うなづいた。しかし、その姿はかなり眠そうである。
「寝た方が、いいよ。」
 肩に手を置く。以前なら反射的に弾かれ、後ずさりし、軽蔑するような目で僕を見たものだが、今では受け入れられるようになったようだ。
 彼の手の上に手を重ね、寝てしまいそうになる。
「…いしょ。」
 ベッドへ持ち上げると、彼女はそのまま寝てしまった。その寝顔を見ながら、信之はどうすべきかを考えていたが、いつしか眠りに入ってしまった。


中編




 

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